戦地で生きる支えとなった115通の恋文

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愛しくて愛しくて…淋しくて淋しくて…。
1944年、フィリピン・ミンダナオ島。
「ミンタルの虎」と呼ばれた男のそばには、いつも妻からの手紙がありました。
戦後70年、今こそ伝えたい『言葉』と『思い』があります。

著者:稲垣 麻由美
装丁・装画・本文デザイン:七澤 菜波
出版社:扶桑社
定価:本体1,300円+税
ISBN-10:4594073018
ISBN-13:978-4594073015

115 love letters - sustenance in the battlefield

Around the time when the Sino-Japanese War was developing into the Pacific War, one woman frequently sent letters to her husband in the battlefield. Of those letters, 115 exist to this day. At that time the woman, pregnant with her first child, was missing her husband desperately—him being so far away in such perilous circumstances. She wrote to him of her love for him, her anxiety and loneliness—these evocative and poignant letters will touch every heart, beyond time and borders.

My dearest husband,
Please remember that everybody, God, the Buddha, your parents, and I, everybody is always protecting you. I assure you that I am fine with my big tummy, and I am disciplining my spirit every day. Soon it will be nine months. You will be surprised to see how big my tummy's gotten. Lately I cry easily about every little thing. I know I cannot live without you, so please, please stay alive, come back home alive...

My darling husband,
I am so lonely. So lonely that I put on your clothes just to feel close to you. I was remembering the days when you were wearing these clothes. I was filled with emotion...

Although greatly pained by her loneliness, it seems that she set her mind to be strong, as the wife of a military man should be. Even now, 80 years later, we can feel her complicated state of mind as we read her handwriting in those yellowing, crumbling letters.

The husband, Fujie Yamada (born in 1907), was the sixth son of a farmer. At the age of 21 he was drafted into the infantry as a private. With his excellent reflexes and good physical condition, he distinguished himself and entered the military academy at age of 29. Later, he was called the “Tiger of Mintal” because of his performance on the battlefield. When the war finally ended he was a major, and was the battalion commander of the 353rd independent infantry battalion on the island of Mindanao in the Philippines. After being held in a prison camp in Davao for a year, he returned to his hometown in Fukui Prefecture in Japan in the autumn of 1946.

The wife, Shizue Yamada (born in 1913) was also from Fukui. They married when she was 23. After the war she raised their six children and supported her poor family by doing needlework.

Shizue and Fujie were separated just after their marriage, and were apart for two years during the early part of the war. These 115 letters are the ones she wrote to him during that period. Fujie wrote the date on each letter when he received it, and he kept all her letters and envelopes in a bundle tied with string. Their exchange of letters ended the moment he came home; soon after the family moved together to Manchuria.

Then in 1944 Fujie was ordered to fight in the south. It seems he took the old love letters from their newly-married days with him, because when he came back home again in 1946 there were 115 letters in his backpack. Their first daughter, Kikuyo Yamada (now Mrs. Watanabe), who was eight years old then, clearly remembers the scene of his return home. Inside her father’s backpack there was only some sugar candy, some raisins and the bundle of letters. She wondered what they were. She never forgot the image: the letters, the vivid orange color of the persimmons in the garden, and her father’s emaciated body.

The southern battle line where Fujie was dispatched in 1944 was a harsh battlefront; everyone faced extreme starvation and infectious diseases. Many solders suffered from malaria and amoebic dysentery, and 90% of them died of starvation. Those soldiers who managed to survive had no other choice but to escape to the mountains and feed themselves during the long drawn-out battle. It was said that was the epitome of that horrible war. 498,000 Japanese solders died in battle in the Philippines. Some records indicate that the Japanese death toll, including Japanese who originally lived in the region, reached 510,000. There were 1,152 men in the Yamada troop led by Fujie: 967 of them died—only 165 survived.

After the war, Fujie never talked about his time in the battlefield. The only exception was in Shizuoka in 1974, when he made the opening speech at the ceremony for a new cenotaph for the Yamada troop. Fujie died at age 90 but he had suffered from dementia from the age of 80. For ten years he roamed the local shrines and temples and collected objects such as pebbles, dead birds and human waste to take home. His family said that it was as if he were collecting the remains of his soldiers who had died in the Philippines. This is another negative side of war: that people have to live keeping secrets that they cannot share with anyone. In his extreme mental state during the war, Fujie must have gotten great support from those love letters. When we look at his later life, we can easily imagine that.

In these letters, which miraculously survived for over 80 years, there are words and thoughts that should be heard by modern people. The messages contained in these love letters will surely move us and make us think deeply about life and love, war and peace.

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ストーリー

いつの世も、愛する人を思う切ない気持ちは変わりません。
まして、明日の命をもしれぬ戦時下においては、その思いはより切なく、より特別なものとなったことでしょう。

時代が日中戦争から太平洋戦争へと向かう頃、戦地の夫へ手紙を送り続けた妻がいました。まだ結婚して間もなかった二人には、その別れはつらく、妻のお腹には初めての子が宿っていました。今ではすっかりセピア色に、いえ、深い黄褐色に変色した便せんに綴られた手紙には「淋しくて、淋しくて」と書かれた妻の文字……。

戦地にいた夫は、その手紙が届くたびに、いつ届いたのか日付を記し、番号を打ち、封筒もきれいに開いて、麻の布地を細く切ったようなひもで綴じ始めました。その数115通。当時、部隊は日々移動するため、宛先は「中支派遣 藤江部隊気付 南部部隊 木村部隊本部 歩兵中尉 山田藤栄様」というように、いわゆる住所ではなく所属する部隊名でした。

私がこの手紙と最初に出逢ったのは2009年のこと。私のいわば「鎌倉の母」ともいうべき、料理研究家の渡辺喜久代さんから「実はね、あなたに見せたいものがあるの」と、手渡されたのがこの115通の恋文でした。訊けばこの手紙は、陸軍軍人であった喜久代さんのお父様と、お母様が戦時下に交わしたものだというではありませんか。驚きました。何と言っても、この手紙は70年以上も前に綴られたものなのです。

この手紙には、「愛しい」「恋しい」との言葉が頻繁にでてきます。私は大正生まれの女性が「愛しいあなたに抱かれたい」と素直に書いていることにまずは驚き、「安心」という言葉を「安神」と書かれていたことに驚きました。

戦争を知らない世代の私が何かを偉そうに伝えることはできません。ただ、この手紙を通して、この時代に思いを馳せ、何かを感じ取っていただければ何より幸いです。

戦後70年を迎えた今、伝えたい「言葉」と「想い」がここにあります。

この恋文が教えてくれる「戦争」とは

  • 山田藤栄氏
  • 山田しづゑ(妻)

夫・藤栄氏は農家の6男に生まれ、21歳で歩兵2等兵として召集されたのを機に、陸軍軍人としての道を歩み始めます。同年、陸軍仙台教導学校に入校。29歳で陸軍士官学校に。その後、めきめきと頭角を現し、昭和15年に功四級金鵄勲章、勲五等旭日章を授与されています。そして昭和19年にフィリピン・ミンダナオ島へ。独立歩兵第353大隊長として1152人を率いることに。現地での活躍により、次第に「ミンタルの虎」と呼ばれるようになります。そして、そのまま現地で終戦を迎え、捕虜として1年間抑留された後、復員しています。

妻・しづゑさんは農家の5女として生まれ、23歳で結婚。6人の子供を育て、戦後は苦しい家計を針仕事で支え続けました。

最初、私は二人の甘く切ない恋物語を描こうとしていたのですが、夫・藤栄氏が少佐として最後に赴任したミンダナオ島での出来事を詳しく調べるにつれ、その思いは全く違うものになっていきました。そこにあったのは、激烈な戦闘の記録というよりも、飢餓と悪疫に苦しむ修羅場であり、生還者が残した手記には、どれも極限の状態で次第に喪失していく人間の良心や尊厳について書かれており、歴史書ではうかがい知れない戦争の本質を知りました(本書の中でも詳しく触れています)。そんな状況下で彼を支え続けたのが、この恋文だったのです。

藤栄氏は復員後、戦地での出来事を家族には一切語らなかったそうです。平成9年に90歳で亡くなっていますが、80歳を過ぎて痴呆の症状が出始めた頃から、地元の神社仏閣をまわっては、おいおい泣きながら小石や鳥の死骸、他人の汚物などを拾って持ち帰るようになったそうです。それは恐らく、藤栄氏にとって、戦地に遺してきた部下達の遺骨収拾をしている時間だったのではないか、とご家族は話されています。

戦争で亡くられた多くの方々の無念を思うと同時に、人に一切、語れないものを抱えて生き続ける、そんな人生をたくさん生んでしまうのも「戦争」なのです。

「過去」を知ることは、「今」と「未来」をより深く考えることに繋がります。

稲垣 麻由美

メディア掲載

新聞・雑誌・ラジオ・TV
<2015年>
山梨日日新聞 産經新聞 朝日新聞 福井新聞 サンデー毎日読売新聞 毎日新聞書評 神戸新聞 新日本海新聞 タウンニュース(鎌倉版)スポーツ報知 週刊女性 産経ニュース(http://www.sankei.com/life/news/150815/lif1508150015-n1.html
文化放送・大竹まこと『ゴールデンラジオ!』
ラジオ大阪 『高岡美樹のべっぴんラジオ』
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福井TV『タイムリーふくい』(1時間番組)
J−COM 鎌倉デイリーニュース
J−COM 神奈川 夕なびニュース
<2016年>
FM J-WAVE「BOOK BAR」杏ちゃんオススメの1冊
『致知』致知随想 「アゴラ 言論プラットフォーム」 yahooニュース
NHK おはよう日本
福井新聞
日刊県民福井
雑誌「きらめきプラス」師走号
関連イベント
<2015年>
『115通の恋文』講演会(鳥取県米子市 今井書店)
『115通の恋文』朗読会(福井護国神社「月読」会にて)
<2016年>
2月5日 追手門学院大学リーダーズスクール & 西日本学生リーダーズスクール「リーダーシップセミナー」にて『115通の恋文』講演
5月10日~5月15日(新宿シアターサンモール)朗読舞台劇『逢いたくて』(『115通の恋文』原作・舞台化)
9月17日~9月19日(日本橋三越劇場)朗読舞台劇『逢いたくて』(『115通の恋文』原案・舞台化)
10月8日~10月10日(日本橋三越劇場)朗読舞台劇『逢いたくて』(『115通の恋文』原案・舞台化)
10月22日~11月27日(福井県 丸岡文化財団 日本一短い手紙の館)日本一短い手紙の館 『115通の恋文』特別企画展
<2017年>
J:com鎌倉 制作番組「戦地への恋文」が「第5回ヒストリーアワード ~地方の歴史から日本を紐解く~」入選
7月16日~7月17日(日本橋三越劇場)朗読舞台劇『逢いたくて』(『115通の恋文』原案・舞台化)
8月8日~8月13日(日本橋三越劇場)朗読舞台劇『逢いたくて』 (『115通の恋文』原案・舞台化)

『115通の恋文』に寄せられた感想

数行読んで、涙腺ボロボロ・・・の箇所も。戦争中、軍事郵便として、受け取った妻からの115通の恋文の束。中身は日々の生活の断片の綴りと、夫への強烈な語りかけと祈り。この束を肌身離さず持ち歩くことで、捕虜としての過酷な尋問にも耐え抜く。
「ミンタルの虎」と呼ばれた1000人以上の指揮をとった大隊長の山田藤栄氏。現地の人から略奪するゆえに、敗戦後は収容所へ向かう隊列にも現地人に石を投げられる日本兵が多い中、彼は、捕虜になっても現地の人から、「殺さないで」と嘆願受ける人物。また自決を阻止し、祖国再建のため生きるよう部下を説得。しかし、自らは戦後、要職に就くことなく、繊維工場の門番・警備など厳しい選択をする。
極めつけは、認知症の症状が出てから、神社仏閣から泣きながら鳥の死骸や、汚物を拾って家に持ち帰るようになった行為。戦時中、部下たちの遺骨収集さえかなわなかった悔恨ゆえか。フィリピンでの戦死者約50万人。しかし、その大半は、戦闘ではなく、病死と餓死であったとのこと。
著者の稲垣さんは戦争自体よりも戦時中の状況を他の方の手記を引用しながら、客観的に描写し、補足を加えています。英雄ものに仕立ててはいない。だからこそ興味は尽きません。苦悩と十字架を背負った生身の人間の戦後。多くを語らなかったことが「強い人」であった証しでは。こういう方こそ誇りに思い、記憶に刻んでいきたいと思います。言葉の力も、想いの力も、大きなものがあります。あらためて大切にしなければと思いました。

(50代男性)

「お互い愛すれば愛するほど、さみしくて懐かしくて、居ても立っても居られない気持ちになるのね。こんな気持ち、初めて」「ああもう、いつになったら優しいあなたの胸に飛び込むことができるんだろう…そんなこと考えたりして。写真を眺めるしかないの。」
西野カナとかのJポップの歌詞ではなく・・・。70年前、戦地の夫に送ったある女性の手紙の一節。もちろん こんな文ではなく、当時のたおやかな美しい日本語で綴られている。けれどそこに表されている想いは、現代の女の子と変わらない気がする。間に書かれている南方戦線の史実には、手紙の甘く優しく美しい描写に比べて、胸が痛くなり、言葉も無い。戦士達は9割が餓死若しくは疫病で病死、敵と戦って命を散らしたのではない。
「私は小さい頃から今頃の夕方が一番好きでした。あの蛙やみみずの鳴声を聞いていると……大好きですわ。 ああ、いつになったらやさしいお父様の胸に飛び込む事が出来るやらとそんなことを考えたりして、子供がいても、又しても愛する私の夫様のことを思い浮かべては 写真を眺めるより他はありません。一寸やわらかい顔してる処、大好きよ。」

(40代女性)

闘病治療中の私に「泣きたかったら泣いてもいいんだよ」とのメッセージをくれた人がいた。
うかつにも、自分の境遇で泣くことに思いが至らなかった。
とはいえ、泣くことに関しては、けっこう自信がある。
高校野球をはじめ、最近は子供が頑張っているのを見るだけで泣ける。
そして、この夏は戦争関係のTVや本でも泣いた。呼応するような二冊の本がある。
戦場の男から女への想いをつづった「永遠のゼロ」
銃後の女から戦場の男への想いをつづった「恋文」
一方はフィクションであり、他方はノンフィクションである。
でも、私は、ワンセットのように読めた。
人類のほとんどは戦争反対ある。しかし、人間は戦争する生き物である。
戦争は起きるもの、戦争には巻き込まれるもの、という前提が必要なことは歴史の前の事実なのだ。
それでも、戦争の中で生きた名もない個人にも美しい物語がある。
戦争は絶対に美しいモノではない。しかし、戦場にいた、銃後にいた個人には美しい物語がある。
それを貶めるようなことを断じて許したくない。

(50代男性)

「こんなにもまっすぐ相手に気持ちを伝えることは、相手にとっても、自分にとっても、大きな力となるんですね。」
戦時下に書かれた115通の恋文と向き合ってきた著者が、最後に記していたひと言。まさに、この一冊の本を通じて私も同じ思いを抱きました。

戦争という動かせえぬテーマを重心にすえながらも、この本に綴られているのはやはり「恋文」です。時に普通の男女の甘いやりとりを覗き見しているかのようなドキドキ感を、時に人が人を想うことの歓びと切なさに触れる。どんな状況にあっても変わらない普遍的なもの、愛。しづゑさんの手紙には、全体にそういうものを感じさせる何かがありました。著者も書かれていたとおり、彼女の言葉には「体温」があるのだと思います。真っ直ぐな言葉には熱量が宿り、時に人の生命をも支える力となる。

過酷な戦地で奮迅されていた藤栄氏は、一字一字、飢えた喉を水で潤すように、しづゑさんの言葉を必死に呑み込んでいたのではと想像します。その時、二人の心はお互いの元にあり、その世界の中で、藤栄氏の腕は確かに妻と娘を抱いていたんだろう、と…。
著者の6年間にも渡る入念な取材と、驚くほど丁寧な調査が、本書を単なる感動を超えた史実本に仕上げています。

一体あの戦争とは何だったのか。人が人を殺すとは、愛するとは、何なのか。
決して答えのない問いに、現代に生きる私たちがしばし思いを馳せ、日々の当たり前の幸せや喜びについて改めて考えさせられます。

(30代女性)

素晴らしいとか、月並みな言葉ではとても言い表すことができないほどで、あの貴重な手紙が稲垣さんに託されたことが、運命的だと思いました。
その手紙は、埋もれることなく、日の目をみるべくして在ったのだと思えました。本が映画になるといいですね!
読んでいて、映像が目に浮かびました。悲惨な内容でありながらも、こういう形でなら、いまの若い人たちにも身近に受け止めてもらいやすいかもしれないと思います。本がより多くの人の目に触れ、広がっていくことを心よりお祈りしております。私たちの命が今日ここにあることの感謝とともに、戦争を後世に伝えていく義務の一端を、私も微力ながら担えたらと思います。

(40代女性 大阪)

目次

序章 115通の恋文が今、語りかけてくること
第1章 冬 ― 忘れられぬ夫様へ ひとりぼっちのしづより ―
「安心」を「安神」と書いた時代
筆跡から伝わる揺れる想い
第2章 春 ― 貴方はパパ様に、私はママになりました ―
戦地と日本を繋いだ「軍事郵便」とは
「軍歴証明書」が教えてくれる藤栄氏の足跡
第3章 夏 ― お父ちゃん、早く元気なお顔をお見せ下さい ―
「ミンタルの虎」と呼ばれた男
地獄の万華鏡、戦地ミンダナオ島の真実
第4章 秋 ― お父様が恋しくなってペンを走らせております ―
なぜ、捕虜となってもこの手紙が残っていたのか
刊行によせて 緑いろの風のなかで 渡辺喜久代
終章 何も知らないことの怖さ

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この本の筆者について

稲垣 麻由美(いながきまゆみ)
1968年、神戸生まれ。
エッセイスト、ブランディングディレクター
株式会社一凛堂 代表取締役
ライター・編集者を経て執筆活動をスタート。現在は出版プロデュース、執筆の活動と並行し、経営者・政治家・ビジネス書著者を主なクライアントとしたイメージコンサルティング事業も展開。